杵臼事件
先祖の墓地を「発掘」され、遺骨を持ち去られたままになっている浦河町杵臼コタン出身の城野口ユリさん、小川隆吉さんら計3人の遺族は2012年9月14日、北海道大学に遺骨の返還と1人当たり300万円の慰謝料支払いを求めて、札幌地方裁判所に提訴しました。
- 第1回口頭弁論における城野口ユリさんの意見陳述書(全文)
- 第2回口頭弁論における市川守弘弁護士の意見陳述要旨
- 第3回口頭弁論における小川隆吉さんの意見陳述書
- 2016年3月25日、3地域の訴訟のうち浦河から持ち去られた遺骨について和解が成立しました。
- 和解後の記者会見
- 2016年7月15-17日、北海道大学医学部のアイヌ納骨堂(札幌)から、12箱分の遺骨が約85年ぶりに故郷・北海道浦河町杵臼コタンに帰還しました。
第3回口頭弁論における小川隆吉さんの意見陳述書
アイヌ遺骨返還請求訴訟第3回口頭弁論(札幌地裁、2013年4月19日)における原告・小川隆吉さんの意見陳述書です。
意見陳述書
2013年4月19日
住所(略) 小川隆吉
1 杵臼墓地
私は昭和10年に杵臼で生まれました。アイヌとして生まれ育ったのですが、親やまわりの年寄りは、アイヌの暮らし方や風習、伝統といったものを子供の私には見せないようにしていました。葬式もアイヌ式でしていたようですが、夜、こっそり、こどもの目の触れないようにしていました。差別を受けないようにとの年寄りたちの配慮です。
今、この裁判で一緒に原告となった城野口ユリさんたちは、近所に住んでいました。
ある日、私の母が、灌漑用水路にかがんで洗い物をしていて、間違って落ちて死んでしまいました。私が11歳のときです。このとき、ユリちゃんのお母さん、マツさんが、私を抱いて泣きました。マツさんは、その当時、コタンのリーダーでした。私の面倒をよく見てくれました。
母は杵臼のアイヌ墓地に埋葬されました。
けれども、杵臼での生活や杵臼墓地のことは、長い間、記憶から消すようにしてきました。
この杵臼の墓地に私の曾祖父母、エカシ・フチが眠っていたのです。わかっているだけでも10名以上です。小川伊多久古禮が亡くなったのは明治38年6月3日、フチカシユが亡くなったのは昭和6年4月1日です。それらの骨はすべて北大に持ち去られました。
昭和49年、兄の清治郎が杵臼に新しい墓を建てました。清治郎が本州へ転居の後は、私が妻や子供たちと、毎年夏になると、草取りをしたりお酒をあげたりして先祖を供養してきました。
2 北海道大学医学部動物実験室
昭和56年9月16日、貝沢正、野村義一、杉村京子、佐藤幸雄、葛野守一、小川隆吉の6名が医学部3階に案内されました。その部屋の壁一面に、頭骨があったのです。
右から、エゾオオカミ、シマフクロウ、そしてそれらに並んでアイヌの頭骨がありました。動物の骨と並んでアイヌの頭骨が並んでいたのです。 アイヌ頭骨には、ナンバーとドイツ語の文字が書かれていました。
旭川から来た杉村京子さんはこれを目にして、床にひざまずき、「許してください、許してください……」と三度、叫びました。三度目は、声をつまらせていました。
そして、何にも持たずに来たことを詫び、近くに立っていた佐藤君に、「タバコ、ロウソク、お線香を急いで買ってきてください。」と言いました。
佐藤君がビニール袋に入れて持ってきたものを見た北大職員から、「ここは火気厳禁です」と告げられたが、皿を使い、巻煙草にライターで火をつけて供養をしようとしました。なんとも言えない怒りで、目の前が見えなかったことを今も思い出します。
上記の実態を現アイヌ協会本部に知らせるきっかけを作ったのは、北海道日高郡厚賀町出身のアイヌ、海馬沢博氏でした。北大獣医学部の卒業で、当時、自治労の副委員長でした。今思えば、私は、海馬沢氏の思いと遺志を受けついていでこの裁判を起こしたのです。そのことを裁判長にはっきり伝えます。
上記の実態は放置できない、せめて地上に下ろすべきだとの協会の声を大学は無視できなくなりました。そこで、医学部駐車場に、建物面積は74㎡、工事費は1640万円という見積もりで、納骨堂を建てることを文部省に申請したのです。
請負業者が決まり、足場が立ち、建物名が書かれた看板が立てられました。そこには、なんと、「北海道大学医学部標本保存庫新設工事」と書かれていたのです。
なぜ、このようなことをずるのかと現場工事請負業者に聞いたのですが、大学に聞けというばかりです。
北大に聞くと、この工事は国の事業で、3年後に行われる会計検査が済むまでは変更はできないといいます。
ここから、文字通り、北大の2枚看板の始まりです。北大は、アイヌ納骨堂として建てた建物が、宗教色が強い建物は建てられないという理由によって、表向きの看板には、「医学部標本保存庫」としたのです。先祖の骨が標本室と書かれた建物に置かれているという事実はたいへんに屈辱的でした。 そして、また、この中にいったいどのような骨があるのか、その内容も知らされないままでした。
3 アイヌ人骨台帳
私が北海道大学にアイヌ人骨台帳の存在を知ったのは、今から5年前の平成20年のことです。1月10日、10時10分、私の携帯電話が鳴りました。
「小川さん、元気ですか?」「ぼく、北大医学部の学生です。小川さんが探していいたアイヌ人骨台帳と思われるものが見つかりましたよ。」との声に、私はびっくりしました。
「まさか…、本当か?!」
「ぼくは嘘はつきません。」
11日の朝一番、スクーターで北大事務局に飛び込みました。9時30分でした。2階部長室で林副学長と名刺交換しました。
「アイヌ人骨台帳があると聞いてきたが、本当か」と尋ねました。林副学長は、「ありました。しかし、あのままでは外部に出すのは難しい」というのです。
私が、「あのままとはどのようなことを指すのか?」と聞いたところ、「記述内容に差別的なものがあった。」と話され、「時間がほしい。」と付け加えました。
もう待っていられないとの思いで、その三日後に情報開示請求の手続きをスタートしました。ここでも、待ってくれ、待ってくれのオンパレード。
しかも開示されたのは、とても台帳とは言えない、ワープロで入力された簡単なリストです。この元となった「台帳」を出して欲しいと北大に請求したが、「そんなものはない」の一点ばりです。
もう我慢できない。そこで、異議申し立てをしたところ、9月には申し立てが認容され、アイヌ人骨に関する文書がなんと27点も開示されたのです。その中には、「アイヌ民族人体骨発掘台帳」という手書きの台帳もあり、そのときは、これこそ探していた「台帳」だと喜びました。
しかし、この3月に北大が出したアイヌ人骨についての調査報告書には、台帳の原本である「発掘人骨台帳」というものがあって、それが平成20年、私が開示請求をしたときに医学部にあったというのです。唖然とするほかありません。
北大には、「虚偽」と「隠蔽」しかありません。真実に近づくための学問の府とは、正反対です。児玉作左衛門の時代だけではなく、今もなお、アイヌに対して侮蔑に満ちた態度しか取れない、これが北大です。このような研究者に、大切な先祖の骨を保管させておくことはできません。
4 無条件での返還と謝罪
若いとき、記憶を消そうとしたアイヌの暮らしや伝統、そしてアイヌの墓は、私と家族にとって、そしてアイヌにとって、かけがえのないものです。
墓からの盗掘がいかに罪深いものか、学問の自由とは何か。人間の静かに住む大地、アイヌモシリが奪われ、死者の人骨まで奪われる。それを返そうとしない北海道大学に限りない怒りを私は表明します。ただちに返してください。無条件で。
北大と国立科学博物館と政府は、盗掘されたアイヌ人骨を白老に移送し、そこで「慰霊」をすることによって大学の全責任を免れ、しかも新たに遺伝子研究の材料にしようとしているのです。この態度が一番許せないのです。過去をうやむやにする姿勢が許せないのです。
この裁判で、先祖の人骨を取戻し、北大が行なってきた罪悪をすべて明らかにしていきたいのです。
以上