北大開示文書研究会のシンポジウム・出前講座

先住民にサケを獲る権利はあるか?
基本的かつ普遍的に認められる先住民の主権について~アメリカにおける先住民の主権とサケ捕獲権~

コロラド大学ロースクール教授
チャールズ・ウィルキンソン講演会

2016年7月30日

Charles Wilkinson

Charles Wilkinson

1963年、デニソン大学卒業。スタンフォード大学ロースクール卒業。アリゾナ州フェニックス、カリフォルニア州サンフランシスコでの法律事務所勤務の後、「ネイティブ・アメリカン・ライツ・ファンド(アメリカ原住民権利基金)」専属弁護士、オレゴン大学ロースクール、ミシガン大学ロースクール、ミネソタ大学ロースクールを経て現職。専門はアメリカ西部の歴史と社会、インディアン法、公有地法、水法など。


みなさん、こんにちは。きょう、ここに来ることができてとてもうれしく感じています。

私は自慢するタイプではありませんが、われながらナイスと思うのは、二度の日本旅行で二度とも北海道に来ていることです。アウトドア好きな友だちがいて、「日本に行くって? あんなゴミゴミした国で仕事とはお気の毒」とからかわれたので、「いや、おれは行くのは日本は日本でもホッカイドーだよ」と言い返してやりました。

私は北海道が好きで、これまで大雪山に登りましたし、太平洋岸も日本海岸にも旅したことがあります。そしてこの札幌。山が近くて、大好きな街です。

市川守弘さん・利美さんのご夫妻は昔からの本当の親友で、我が家に来た時はいつも4人の息子たちを可愛がってくれます。きょうはお招きありがとう。

それから札幌米領事館からお越しくださった3人のみなさんに感謝を申し上げます。オバマ大統領もきっと評価してくれるでしょう。オバマ大統領は以前から先住民族の強力なサポーターでした。彼は大学院生のころ、先住民族出身の法学生たちのサークルに出入りしていたそうです。アメリカ先住民にとって、オバマ氏ほど頼りになる大統領はこれまでいませんでした。このことには後で触れます。

そして、今回お知り合いになったアイヌの友人のみなさんにも感謝します。昨日までの3日間、私を自宅に泊めて、深い話を聞かせてくださいました。生涯の記憶に残る体験でした。

私はこれまで45年にわたって、自然資源をめぐる問題、また先住民族の権利に関する法律の専門家として働いてきました。法律事務所に就職した駆け出しのころには、まさかこんなふうに北海道でみなさんと知識を分かち合う日がくるとは思ってもみませんでした。それどころか、先住民族にこれほど心をつかまれることさえ想像していませんでした。

みなさんの前にはいま、大きな壁が立ちはだかっていますね。きょうはこれから「先住民族の主権」をテーマに、私の知識や考え、国際社会における先住民族の人権拡大の動きなどについてお話ししようと思います。

みなさんがこれから「アイヌの権利」を実現させるのに、どう運動し、どう政策に反映させていけばいいのか。このことを議論するのに、今はちょうど良いタイミングだと思います。

というのも、現在はグローバル化、国際化が実現しているからです。いまアメリカのどのロースクールにも国際法専門の教官が必ずいて、国際的な規範に基づいて法律議論ができる環境が整っています。アイヌの先住民族としての権利についても国際的な観点で議論できるわけです。

しかも、きょうの講演会を共催くださった「コタンの会」のみなさんは、ちょうど先週、大学からの遺骨返還を成し遂げられたばかりです。これまで先住権を踏みにじられてきたアイヌが、遺骨返還を通じてついに権利を行使し始めました。遺骨返還は、紛れもなく主権の行使です。主権者(日本政府)と主権者(アイヌコタン)の間のやりとりですからね。さきほど殿平さんがごあいさつで話されたように、これはまさに「歴史的な瞬間」だったと思います。ここにおいてコタンは「主権を持つ団体」になったのです。

アイヌの主権を称えましょう。主権とはいったい何かを理解しましょう。一般のみなさんがどうしたらアイヌの主権をサポートできるか、考えましょう。

世界の先住民族たちは主権をどうとらえているのか──。まず、北米大陸北西海岸地域のインディアン・トライブの事例をこれから詳しくご紹介していきたいと思います。また2007年に採択された「先住民族の権利に関する国際連合宣言(UNDRIP)」についても説明します。私のお話がみなさんのお役に立てばと思います。

 

トライブの主権とは?

これからお話しするのは、おもにアメリカ北西部ワシントン州ピュージェット湾(Puget Sound)周辺に位置する約20個のインディアン・トライブのことです。

「主権」について主流となっている解釈は、時系列的にそれを捉える、というものです。米国北西部地方のこれらのインディアン・トライブの場合だと、彼らの祖先は約1万2000年前にこの場所に移住してきたことが分かっています。白人社会と接触するまで、彼らの主権はどんなだったか。
先住民族ではない人たちが、どんなふうに先住民族のことをみているかというと──きょうここにお集まりのみなさんのことではありませんよ──、現代を生きる先住民族に対しても、原始的・野蛮・異教徒といった言葉で説明される場合が少なくありません。同じことを柔らかく言い換えた言葉もありますが、いずれにせよ、正しくありません。歴史を誤認しています。

たとえばピュージェット湾岸のトライブの人たちは「Salmon people(サケの民)」と自称していますが、サケのほかにも多様な海産資源、シカ類や鳥類といった陸産資源を利用していました。長さ5mの河川用カヌー、10mの海洋カヌーを使い分けていました。いくつかのトライブではクジラ漁が盛んでした。10~20人の漁師たちが海洋カヌーに乗って200~300kmの沖合まで漕ぎ出し、体重2トンもの獲物を仕留めて、村に持ち帰ってきました。そんなカヌーが帰ってくるのを水平線上に認めると、村人たちは総出で出迎えの準備をします。村人たちは一人一人がそれぞれ担当の仕事を受け持っています。彼らはクジラの一欠片たりとも無駄にしません。クジラの魂に感謝の歌を捧げ、肉・脂肪・皮・骨などクジラの体の全ての部位を丁寧に処理しました。

余談ですが、今回の北海道訪問で知り合ったアイヌのおひとりも素晴らしいサケ漁師でした。ピュージェット湾岸に暮らすインディアン・トライブにとっても、太平洋を挟んで反対側に暮らすアイヌにとっても、サケが同じように重要な資源と位置づけられているんですね。どちらの人々にとってもサケは主食であり、主要な交易品であり、信仰の対象であり、アーティストたちのモチーフであり続けてきました。北米北西海岸のトライブでは7種のサケ科魚類が利用されているのですが、このうち6種までをアイヌも利用していたとうかがってビックリしたんです。両者は本当によく似ていて、「姉妹集団」と呼んでもよいくらいだと思いました。


北太平洋に分布する主なサケ科魚類

米名 学名 アイヌ名 和名
coastal cutthroat trout O. clarki clarki カットスロート
coastal rainbow trout O. mykiss irideus スチールヘッド
Chum salmon O. keta チェプほか多数 シロサケ
Coho salmon O. kisutch マトチェプほか ギンザケ
Chinook salmon O. tshawytscha メトチペほか マスノスケ
Sockeye salmon O. nerka カパチェプほか ベニザケ
Pink salmon O. gorbuscha トピリほか カラフトマス
O. masou サキペほか サクラマス
Dolly varden S. malma オソルコマ オショロコマ
White-spotted charr S. leucomaenis トゥクシシほか アメマス

 

さて、ピュージェット湾岸の「サケの民」たちのサケ漁はこんなふうです。沿岸に定置網を仕掛けておき、収獲の時には2~3隻のボートで網をたぐり寄せて、1日に1万5000尾ものサケを捕らえます。

サケ漁はトライブの主権によってコントロールされていました。自然資源はじょうずに管理しないと持続的に利用できなくなるからです。ある一家が度を超してサケを捕り過ぎてしまった場合、トライブの古老はある種の歌を歌って乱獲が起きたことをみんなに知らせ、捕獲を控えるよう促します。

狩猟採集の場面だけではありません。だれかが盗みを働いたり、他人を傷つけてしまったりしたら、コミュニティ社会によって罰せられます。これは主権の発動です。

主権とは、法律を作ること、それをみんなで遵守することなのです。やってはいけないことを(みんなで)定め、もしそれをする人がいたら(みんなで)戒めるということです。

人類学者と議論したことがありますが、こうした小規模社会では高い秩序が保たれていたと考えられるそうです。1000人規模の社会なら、許されることと許されないことの区別や、違反した場合の罰則について、全員が同じように理解することは可能です。

例えば、トライブ内のトラブル解決にはこんな仕組みが設けられていました。特別なトレーニングを積んだ一族が仲裁者・裁判官の役目を果たしていたのです。現代社会ではこのやり方は不可能かも知れませんが、小規模社会で、構成員同士がお互いに顔見知りであれば有効な法的制度だったでしょう。同じように、特定の一族が代々リーダシップをとるやり方は、裁判のほか、宗教や医療、スピリチュアルな癒しといった場面でも行なわれました。これも主権です。

以上は対内的な主権でしたが、いっぽう、対外的な問題に精通した一族もその役目を代々引き継いでいました。例えば、隣接する別のトライブの誰かが越境してきてシカを捕った、というような場合は、対外的な交渉に精通した古老の出番です。また例えば、ティーンエイジャーはいつの時代、どんな社会でも無鉄砲なものですが、若者たちのトラブルを専門に解決する専門家、若者たちを教え諭す専門家もいたんです。

 

マーシャル・トリロジー

ジョン・マーシャル(John Marshall、1755年ー1835年)が最高の連邦最高裁所長だったとすることに異を唱えるアメリカ人はいないでしょう。黎明期の連邦最高裁で、インディアン・トライブの主権について、後に「マーシャル・トリロジー(三大判決)」と呼ばれるようになる画期的な判決文を書いた人物です。

ひとつは、ヨーロッパ人到来前のインディアン・トライブをれっきとした国家(nation)である、と認めたことです。マーシャルのこの視点は、米国はもとより、英連邦の一員だったカナダやオーストラリア、ニュージーランドでもすぐに主流になりましたし、ほかの(植民地主義の)国々にも拡大して、近年の「先住民族の権利に関する国際連合宣言」でも踏襲されています。各トライブに国家としての主権を認めたことで、連邦政府がトライブとの間で取り交わしたやりとりが、単に覚え書きにサインしたという程度ではなく、国際条約と同等の重要性を帯びることになりました。

ふたつめは、先住民の土地所有に関するものです。マーシャルは、インディアンの土地に関する権限を認定し、「先住民にはその場所に住み続ける権利があり、なんぴともその権利を侵害することは許されず、インディアンの土地を勝手に売買したりすることはできない」と判じました。

当時の米国にはホームステッド法(Homestead Act、1862年)というのがありました。入植後、一定の期間内に開墾したらその土地を無償でもらえる、という制度です。当然ながら、先住民がそこにいては邪魔になります。1850年代の連邦政府にとって、インディアン・トライブは人口面でも軍事面でも脅威でしたので、入植者に与える土地を確保するために、連邦政府は各トライブと交渉して条約を結ぶ必要に迫られました。細かな違いはありますが、多くの条約では「先住民族は半分以上の土地を譲り渡す」との約束が交わされました。連邦政府は代わりに別の場所に「リザベーション reservation」と呼ぶ区画を設け、トライブの人たちはその中に住む、という条件です

また北西海岸部の「サケの民」たちは、リザベーション内での完全なサケ捕獲権と、リザベーションの外部でも入植者と同等のサケ捕獲権を保有する、という条件が条約に盛り込まれました。
こうした条約によって、それまで全部の土地や自然資源を独占的に支配していた各トライブは、リザベーション以外の土地を連邦政府にそっくり譲り渡すことになりました。ただ「サケの民」たちの場合は、リザベーション外でのサケの漁獲権をかろうじて保った、ということです。

そしてマーシャル・トリロジーの3つ目は「trust relationship(信託関係)」。つまり、連邦政府には入植者の侵略行為からリザベーションのトライブを守る義務がある、と述べた判決です。

 

アメリカン・インディアン運動

このように主権は認知されながらも、各トライブは連邦政府と条約を結んだことによって多くを喪失することになりました。それまで自由にサケを捕っていた場所から締め出され、入植者たちに漁網を破られたり、時には銃撃されるような事件さえ起きました。

入植者たちの欲望はとめどなく、それに応えるために連邦政府は新たな土地分割制度としてドーズ法(Dawes Act、1887年)を導入します。リザベーションを細かく分割し、トライブに、ではなく、その構成員たち個人を対象に1人当たり160エーカーずつを譲渡するという制度です。そうやってインディアンたち個人に分割譲渡し終えた後、リザべーション内に残った余剰地は入植者たちに開放されました。おまけにインディアンは譲渡された160エーカーずつの土地すら巧妙な横領によって蚕食を被ります。官吏自らが横領に手を染めたケースもありました。

平行して推進されたのが、同化政策です。「同化」と言うと聞こえはいいかも知れませんが、インディアン自身にとっては悲劇でした。伝統的なダンスや儀式は禁止。子どもたちは親から離れて寄宿舎学校に入れられました。長髪を切られ、伝統的な化粧を禁じられ、あらゆる文化は実践できなくさせられました。

それまで北米大陸に存在しなかった病原体も入植者が持ち込みました。それらの病原体による伝染性疾病のせいで、1900年ごろまでに90%もの人口を失ったトライブもあります。

この後の二度の世界大戦を挟んで、1960年代まではインディアンにとって最悪の時代だったと言えるでしょう。かつてトライブが支配していた土地も漁場もおおむね入植者に奪われました。貧困がはびこり、疫病のトラウマが人々の精神を蝕んでいました。幸い「なんとかしなければ」という気持ちだけは残っていて、それがアメリカン・インディアン運動(American Indian Movement、AIM)につながっていきます。公民権運動・女性解放運動・環境運動などと並んで、アメリカ人が誇るべきムーブメントのひとつです。

アメリカン・インディアン運動は、アイヌをはじめ、世界の先住民族の復権にも役立つと思います。どん底の状態から始まって、各地のトライブを現在のレベルまで引き上げることに成功した事例だからです。もちろん、並々ならぬ努力が必要だったことは言うまでもありません。

1960年代、ワシントン州政府は「かつて各トライブと結んだ条約は(トライブが衰退・消滅した現在は)もう無効だ」と主張し始めます。インディアンであろうと勝手にサケを捕ったら違法だ、というのです。ピュージェット湾岸ではインディアンの漁師が繰り返し警察に逮捕される事態に陥り、新聞沙汰にもなりました。

トライブは立ち上がり、デモ行進したり、州議会のビルの前に座り込んだりして抗議の声を上げました。何が起きているのかを市民に知らせるためのドキュメンタリー映画も制作されました。この映画は反響を呼び、続編も作られています。教会がスポンサーになって2冊の書籍が刊行され、トライブを支援するキャンペーンが繰りひろげられました。

ワシントン州から発した運動は、隣接するアイダホ・カリフォルニア・オレゴン各州にも広がり、各地の裁判所で「トライブとの間の条約は現在も有効」という判決が相次ぎました。条約にある通り、リザベーションの内外を問わず、サケの漁業権がトライブにあることが再確認されました。

 

サケ管理権獲得から起爆

先ほどご説明したように、条約ではリザベーション外でのサケ漁業権は「入植者と同等」と約束されていました。しかし1960年~70年代のこれらの裁判では、「同等」とはどういう意味なのか、具体的な数字は示されませんでした。

そこでトライブ側は、例のマーシャル・トリロジーの3つめ、「trust relationship(信託関係)」を持ち出して、連邦政府を自分たちの側に引きつける戦術をとります。連邦政府にはトライブを保護する義務がある、という理屈で、連邦政府に州政府への対抗策を求めたのです。アイヌに引きつけて言えば、北海道庁(の政策)に対抗するために、日本政府をアイヌの味方に引き入れるようなものです。最終的には、連邦政府の代理人が州政府を相手取って訴訟を提起しました。

この訴訟では、トライブに対する共感的な世論が醸成されました。先住民族ではない大勢の人たちがトライブ側のサポーターとなって、裁判闘争を支援しました。米国北西部の各河川は非常に多くのサケが遡上することでよく知られていたので、サケを巡る裁判としても注目を集めました。

裁判を担当したボルト判事(George Hugo Boldt、1903年−1984年)がまた勇敢な人で、1974年のいわゆるボルト判決(Boldt decision)で、条約にある「入植者と同等」という条件のことを、はっきり「50%ずつ」と解釈してみせました。この判決をきっかけに、サケに限らず、カキなどの貝類、トドやアザラシといった海獣類、オヒョウなどの魚類、カニなど高価な甲殻類も同様に、トライブが50%の権利を有するという解釈が定着します。

交渉の中で「同等の権利」という表現で条約に盛り込まれた文言が、裁判でトライブ側に有利なように解釈されたことは大きな意味を持ちました。この判決によって、先住民族の権限が爆発的に拡大することになったからです。

The Northwest Indian Fisheries Commission (NWIFC)(サケなどの)資源管理を行なうには、漁獲行為を規制する法律を制定する権利を持っていないと不可能です。法律を策定する委員会、紛争を解決する裁判所、違反を取り締まる警察官や、資源量をモニタリングするスタッフも必要です。この判決によって、トライブは一気にこれらのシステムを備えるまでに成長したのです。ピュージェット湾岸の各トライブはいま、連邦政府やワシントン州政府とともに、自然資源管理を共同で担っています。

現在、地球温暖化などにともなう環境問題が深刻化しているわけですが、環境保全運動では、いまやトライブが中心的な位置を占めています。トライブは過去何百年、何千年にもわたってサケなどの自然資源を持続的に利用してきました。サケの生態や個体数に関して詳細かつ正確な知識なしにはなしえないことです。トライブの人たちはサケをスピリチュアルな存在にまで高めてもいます。サケと人間のこうした関係性は一般社会にも影響を与え、アメリカ大統領でさえ関心を寄せざるを得なくなってきました。

サケに始まったトライブの資源管理権はいまではほかの魚介類にも拡大しています。おかげで、1960年代にはゼロだった資源管理部門の職員数は、近隣の郡役場のそれを上回って、ひとつのトライブあたり200~300人に達しています。自前の役場や裁判所も設置され、ほとんどのトライブが数人ずつの裁判官を置いています。病院が設立され、トライブの半分に学校があります。ピュージェット湾岸のトライブにとどまりません。全米で36のトライバル・カレッジが設立され、大半は大学院を併設しています。

平行して、各トライブは驚異的に所有地を拡大させてきました。カジノを建設して資金を作り、入植者から土地を買い戻すというやり方です。1960年代以降、その面積は全米で合計1500万エーカ-。北海道の島の75%にあたる面積です。これによって各トライブの所有面積は合わせて5600万エーカーに達しました。北海道の3.5倍に相当する広さです。

土地を買い戻すために、アメリカの先住民たちはカジノを作ったりして資金を作りましたが、アイヌも同じようしたらどうか、だなんて私は言うつもりはありません。ただ、こんなアメリカ先住民も今から50年前にはどん底の状態だった。そこから現在のように変わってきた、という歴史的な事実に、ぜひ注目いただきたいと思います。

このように各トライブは主権を取り戻しました。収益を上げ、土地を買い戻すことによって、トライブは自らを盛り返すことができました。そのきっかけとなった裁判を支えたのが一般市民のサポートだった点も見逃せません。

 

強力な指針としてのUNDRIP

先住民族の権利に関する国際連合宣言
先住民族の権利に関する国際連合宣言

さて、北米北西岸地方のトライブの権利回復について解説して欲しいというのが市川さん夫妻からのリクエストでした。ここから先は、付け加えて述べたいと思います。2007年に採択された「先住民族の権利に関する国際連合宣言」(UNDRIP)とサケ漁獲権の関係についてです。

UNDRIPが今後、米国や日本でどんな影響を発揮するかを予測するのは難しいのですが、私が思うに、どちらの国の先住民族にとっても、将来を左右する非常に重要な文書になるはずです。

1970年代後半のことですが、米国でトライブ支援の活動をしていた弁護士たちの間で、先住民の権利について、何らかの国際的な宣言が必要だという議論が起きました。そこにトライブのリーダーたちが加わり、1960年代から続くトライブの主権に関する議論を延長するかたちで、宣言策定の作業が始まりました。これは10年~15年ほどの間に国際的な動きとなり、米国以外の世界の先住民族たち同士に橋が架かります。

国際連合加盟の各国の思惑をもみほぐす作業が続き、ついに2007年、日本を含む多数の政府の署名によってUNDRIPとして採択されました。米国は署名しませんでしたが、2年遅れて2010年、オバマ大統領が署名しました。その時に彼が「(前任の)ブッシュはどうだったか知らないが、ぼくは大賛成!」と言ったとか言わなかったとか……(笑)。

じっさい、UNDRIPは優れた文書です。総括的かつ詳細で、非常に道徳的だし、力強く、説得的。いろんな状況を踏まえています。だれでもネットで読むことができます。

カギとなる論点は「グループの権利 group rights」です。起草の当初から、先住民族の権利は「公民権運動の立場の人たちの主張するような〝個人の権利〟にとどめてはいけない」という要望がありました。個々人の権利とは別に、グループ(トライブ)として行使できる権利の獲得が目指されたのです。「グループの権利」は、自己決定権とか主権とか、「諸権利が束ねられたもの collective rights」と表現することもできます。いろんな解釈があり得ますが、これから読み上げる諸権利については誰しも異論ないところでしょう。UNDRIPは先住民族の個人および集団に対して、自己決定権、領土権、漁業権など自然資源に及ぶ権利、教育の権利、開発の権利、知的所有権、文化の権利、そして条約によって認められる権利のあることを宣言しています。

各国政府は法令や政府文書を作成する際に、このUNDRIPを遵守しなければならないと私は思います。報道によるとどうやら日本政府はそうではないようですが、「UNDRIPに法的な拘束力はない」といった日本政府の保守的な論法は、私にはUNDRIPの趣旨をねじ曲げているとしか思えません。

確かに、UNDRIPには署名した各国に対する拘束力はありません。でもだからといって守らなくてもよいわけでは決してありません。「世界人権宣言」(Universal Declaration of Human Rights、UDHR)と同様、UNDRIPは各国に対する強力なガイドラインとして策定されたものだからです。

UNDRIPには個々の権利についての詳細な規定がない、という批判も聞かれます。でも私からすると、UNDRIPが挙げた諸権利には、わざと含みを持たせてあるのです。自己決定の権利=主権が実現すれば、ほかのさまざまな権利も取り戻せることは明らかです。

「グループの権利」として「主権」や「自律」という概念は馴染まない、という人もいます。でもUNDRIPには「自己決定権」という言葉が何度も出てきます。UNDRIPは、世界各国の政府が今後、先住権を尊重しつつ、先住民族のトライブ政府(アイヌの場合はコタン政府)とどう向き合うべきか、方向性を示すものとして非常に重要な文書である、と私は考えています。UNDRIPが採択されて以降、世界中の裁判所がUNDRIPに言及するようになりました。

文化や教育の権利、また男女平等といった部分では、UNDRIPは実は一般的な原則を述べているに過ぎません。UNDRIPの本質は「自己決定の権利」を明記したことにある、と私は思います。各国政府もそのように受け止めてくれたらと願っていますが……これまた私見ですが、日本政府にはこの国連宣言を実現しようとする努力が足りないように見えます。

 

歴史的不正義を埋め合わす

Charles WilkinsonUNDRIPをアイヌに適用しようと思ったら、歴史を遡る必要があるでしょう。北海道の島は、すでに江戸時代から日本政府の管轄下にあったとも言えますが、それはアイヌとの交易に限られていたはずです。当時の政府(江戸幕府)は、「蝦夷のことは蝦夷任せ」の態度を取り、蝦夷地でのアイヌの自治を認めていましたし、当時の国際基準から見て、土地所有権はアイヌが有していました。和人(入植者)は居住することも開発することも認められませんでしたし、サケなどの自然資源も各コタンが思うままに利用・管理していたのです。

ところが1868年にスタートする明治政府はアイヌからそれを取りあげ、和人入植者に与えました。明治政府はそのさい、アイヌの手にあった土地に対する権利や漁業に対する権利を保護するための条約すら結びませんでした。19世紀末に北海道旧土人保護法を制定してアイヌに土地を「給与」しますが、実効性に乏しいものでした。

米国においても、インディアンの土地に入植者たちが侵入してどんどん開発をしました。ただ、連邦政府は、各トライブとの間でインディアン保護のための条約を結んだため、それが入植や開発に対する一定の歯止めにはなりました。

アイヌは代々の住み場所から追いやられ、サケなどに対する漁業権も失いました。さっき市川弁護士が説明されたように、現在でも北海道知事の許可なしには、川を遡上してきたサケの1尾を捕獲することすら許されません。しかも、アイヌにサケ捕獲が許可されるのは、文化的・教育的な目的に必要と知事が認めた場合に限られます。そうやって同化政策がどんどん加速するにともない、アイヌ差別が広がりました。現在、アイヌ(コタン)は実質的に土地を保有しておらず、漁業権も行使できない状況です。ただ個人としての地権者、漁業権者がいるだけです。

最後に、ではこれからどうすべきか、それを考えてみたいと思います。

日本政府はまず、犯してはならない不正義をアイヌに強いてきたことにきちんと向き合うべきです。その時(為政者や入植者などの)個人を批判するのではなく、不正義を犯した歴史そのものを認める必要があるでしょう。

私の父はジョージア州出身です。(人種差別の中心だったと言われる)ジョージア州では(1960年代まで)民族隔離政策が採られていましたが、父がこのことで個人として批判されたことはこれまで一度もありません。人を批判するより、歴史を認めることが重要だと思います。

なぜ明治政府は(アイヌコタンとの間で)条約を結ばなかったのか、当時の経緯や責任のありかを追究する歴史学的な研究は、ほとんど行なわれていないようです。国際的には先住民族の権利が回復に向かうにつれ、こうした不正義の歴史を国家が認め、先住民に謝罪するケースが出てきています。国家が歴史を認め、謝罪があれば、それが次の活動に向けた出発点になるでしょう。

それはこれまで行なわれてきた歴史的な不正義を埋め合わせる、ということです。つい先ごろ、みなさんは大学から遺骨を元のコタンに返還させ、再埋葬を実現なさいましたね。これは、歴史的不正義を埋め合わせるための、道理にかなった行為だったと思います。

今回の遺骨返還の経緯をうかがって建設的だなと感心させられたのは、アイヌのみなさんが(和人に対して)「もし札幌でアイヌに和人の墓地を掘られたらどう思うんだ?」といったグロテスクな主張を一切なさらなかったことです。私にしたら、故郷のボルダー市の墓地からインディアンに白人の遺骨を掘り出されるようなもの。どんな場合にも墓地を掘り起こして遺骨を持ち出すような行為は許されない、という意識が共有されていたからだと思います。

まだ残されている遺骨の返還に向けた今後の活動は、大学や博物館などと協働しながら展開なさるべきでしょう。アイヌの協働的な精神や、祖先を敬う儀式を執りおこなう主権を損なわずに進めることが可能だと思います。

歴史的不正義を道義的に埋め合わせる、という場合、私はアイヌ民族には3つの領域があると思います。

第一は漁業権です。ボルト判決は、資源の50%を自由にする権利がインディアンにあるとしました。アイヌの場合にも50%がよいのかどうかは分かりませんが、米国や他の国々では漁業資源や水資源をめぐる権利についてすでに裁判所で審理がなされ、判決も出ています。

第二は土地の返還です。いまそこに住んでいる和人たちをいきなり追い出すことはできないでしょうが、国有林ならアイヌの手に戻すことは可能です。先週、2カ所のコタンをお訪ねしました。「昔は向こうの稜線からここまでが領土だった」と教えられ、地形からも境界線がはっきり分かりました。仮にそこが私有化されて植林地になっているとしても、土地を買い戻す資金を政府が拠出すれば、所有者も売却に応じるのではないでしょうか。

第三は教育です。アイヌの若者たちの多くが教育面での差別に苦しんできました。歴史的な立ち後れを取り戻すために、特別なアイヌ教育が必要だと思われます。不正義の歴史を踏まえたうえで、アイヌの子どもたちや若者たちが十分な学業を積み上げられるようにするのです。アイヌ教育に特化した委員会の設立や、先ほど述べたアメリカのトライバル・カレッジ(大学)と同様、アイヌのための大学建設も視野に入ってくるでしょう。

最後に、日本政府と北海道庁に申し上げたい。かつてアイヌに対してあってはならないようなひどいことをしてしまったことをどうか認めて欲しいと思います。そしてこれからは、素晴らしい文化と美しい子どもたちを育むアイヌの発展に尽くしてくださるよう望みます。

予定の時間をずいぶん超過してしまいましたが、これは十分に議論しなければならない課題です。みなさん、ありがとうございました。


ウィルキンソン氏(米コロラド大ロースクール教授)講演会

先住民にサケを獲る権利はあるか?

コロラド大学ロースクール教授
チャールズ・ウィルキンソン講演会

基本的かつ普遍的に認められる先住民の主権について~アメリカにおける先住民の主権とサケ捕獲権~
とき 2016年7月30日(土)13:30~16:00(13:15開場)
ところ 札幌市教育文化会館(札幌市中央区大通西13丁目)
日本語通訳 ジェフリー・ゲーマン(北海道大学メディア・コミュニケーション研究院准教授)
共催 北大開示文書研究会、コタンの会日本平和学会北海道・東北地区研究会
後援 在札幌米国総領事館
入場料 500円(資料代として)
お問い合わせ

TEL 011-281-3343 FAX 011-281-3383
弁護士法人市川守弘法律事務所内

併催 「85年ぶりの帰還 12人の遺骨が杵臼コタンへ」(コタンの会製作、15分)上映会


Charles Wilkinson

Distinguished University Professor, Moses Lasky Professor of Law

THE FUNDAMENTAL, UNIVERSALLY-RECOGNIZED SOVEREIGNTY OF INDIGENOUS PEOPLES

An Examination of the Sovereignty and Fishing Rights of Native Peoples under American Law

SCHEDULE Saturday July 30 1:30-4:00 p.m.
LOCATION Sapporo Education and Culture Hall
INTERPRETER Jeffry Gayman PhD. Associate Professor of Hokkaido Univ.
ORGANIZER The Association for the Research of Hokudai Ancestral Remains Materials, KOTAN_No_Kai, Peace Studies Association of Japan Hokkaido/Tohoku
SUPPORT The U.S. Consulate General Sapporo
ADOMISSION ¥500
INFORMATION TEL 011-281-3343 FAX 011-281-3383
Morihiro Ichikawa Law Office