北大開示文書研究会のシンポジウム・出前講座

アイヌの遺骨はコタンの土へ 歴史的な再埋葬を語る集い

報告2 「コタンによる葬送の復活」

葛野次雄・コタンの会副代表

葛野次雄さん、葛野大喜さん

 ホントにこれは、「再」埋葬と言うことでね。アイヌの土葬すら今、やられていない。うちの父(葛野辰次郎エカシ、2001年逝去)が最後で、今年で確か16年になるのかな、もう全部、アイヌもシャモも火葬でやる。それが、明治政府がもってきた同化政策の一環かなと思います。

 そんな中で小川(隆吉)さんの話を聞いて、またみなさんのいろんなお話を聞いているうちに、「これはひどい話でないか」ということと、私たちアイヌに、いま一度「埋葬」──土に還るというね、原点に返ったんでないかな、と俺なんか思いつつ。

 まあ、俺はちょっと話が長いですがね、あんまりしゃべると顎が痛くなってねえ。短くしゃべるんだけど。もう痛くなってきたワ(笑)。

 うちの父は94で亡くなりました。でも口だけは元気だったから。最後の1年半くらい、「親父、亡くなったらどうするんだ? 火葬か? 土葬か?」って聞いたんですよね。したら親父はすかさず、「火葬したら熱いからなあ」と言ったんです。(笑)「ああ、それであれば土葬でいくべきかな」って。

 今から3~4年前くらいかな。この(北大から杵臼への遺骨返還の)話が持ち上がり、「俺なら(再埋葬の儀式を)できるな」という思いは、全然なかったですよ。みなさんの力を借りてこのようにできたことが、本当によかったんでないかなってね。

 俺はその、北大がどうのとか日本政府がどうのとかはね、心にあっても言いません。(笑)私たちアイヌの同胞としてね、土に還る。ここでゆっくり休むっていうのがね、私たちアイヌ、アェイヌってね。そのものの考え方だと思いますわ。法律がどうのとかさ、日本の憲法がどうのとか、そんなの俺、知ったこっちゃねえって。

 葬送儀式復活の苦労? 苦労なんてねえ、言える立場じゃないんだけど。

 みなさんも、俗に言う和人の儀礼の中にはサ、ものすごい……。たとえばスナックに行って、おねえちゃんが(お客さんに)左手でお酌をするのは御法度なわけよ。それはアイヌも同じ。もう儀礼・儀礼・儀礼・儀礼でね。一歩、歩くのにもね、うちの親父はね……。

 みなさん、石油ストーブ使いますよね。(天板に乗せる)ヤカンの口はどっちに向けますか? うちの親父はね、薪ストーブであれ石油ストーブであれ、ヤカンを東に向けれって言うのさ。なぜか分かります? 分からん人は分からんくていいってや。(笑)

 流しに行って、芋の煮っ転がし、芋の塩煮っていうね。塩煮を炊いたと。煮っ転がしだから、熱いわけよ。それ(煮汁)をね、流しにいっぺんに流すな、って。どういうことか分かりますか? 流し台にも神様がいるってことさ。

 それまでいったらね、例えば敷居を踏むなとかさ、いろいろなタブーがあるじゃん。それがね、俺はタブータブーって言われたもんだから、背が大きくならんかったのよ。(笑)食うものも食われず。ほんとにみなさん、笑い事のようなものなんだ。そういうことがアイヌにはあったということなのよ。それがどうした、ヤカンが東向きでなかったらお湯が沸かないかと言ったら、そんなことはない。だけどね、その口がね、西を向くということはね、東にお尻を向けるということにつながるのよ。

 だからこのチセの中を写した写真、イヌンペ(炉縁)の東側から撮影してるの、これはタブーなのよ。(笑)

 (祭具の)パスイってありますよね。お酒を注ぐ……。これも火の神様に向けれとかさ。それがどうしたんだって言う人もいるし……俺も多少はそう思ってる……でも、それが儀礼の一つなんだよね。

 あの12体の遺骨をね、(箱の中で)どっちが頭なんだか、どっちが足なんだか分からない。それをどのように運んだかは……みなさんにはナイショ。(笑)それくらいね、大変な思いはありました。何となく分かるでしょ? 分かって下さいよ。(笑)

 さっき話に出た親父が、なぜ土葬を選んだのか。循環だと思うんですよね。私たちの肉体は、土に入ることにより、何らかの神様の糧になる。魂は天界に行くんだ。肉体は土によって10年、50年経つうちに糧になる。

 でもいまの社会は、いらなくなったものはみんな焼却炉で燃やしてしまえ、と。そこらの残飯も何も、市の(収集)車が持って行ってね。そうするとね、この地球、シリコロカムイというんだけどね、この大地の糧がなくなるような気がする。

 アイヌは、使えなくなった物でも、ロッタっていって、ヌサのほうに持って行って、そこで休ませるのさ。そういう循環。食べる物であれ生きている物であれ、いろんなものが循環する、そういうものの考え方の中から、いくつかのカムイノミの原稿を、親父の残した『キムスポ』から抜粋して使いました。

 親父が『キムスポ』の中でこう書いています。俺と3つ違いの兄貴が中学生のころ、親父に「アイヌ語もしゃべられないで、何がアイヌだ?」って。そういう文があるんですよね。

 そのころは、アイヌ同化政策が押し寄せてきて、アイヌがアイヌでなくなってきている。顔と生活(苦)だけはアイヌであっても、心は同化政策の波にほとんど呑み込まれていった。ところが親父は、結核で14年入院していた病床で、息子に言われた言葉に対して、「なにくそ」と思って、病院で書かれたのが『キムスポ』。こういう(出版物の)形になっていない(ノート)がまだまだ、世の中に出ていないんですが、親父はアイヌとしてこれを遺した。私と息子がこうしていま、いるわけだし、これを世の中にどんどんどんどん残していくことが、私と、アイヌの使命でないかなってね、私は考えています。(拍手)


葛野大喜・札幌大学ウレシパクラブ

 みなさん、こんばんは。葛野次雄の息子をさせていただいています(笑)葛野大喜です。自分は、小さいころから、父と一緒なんですけど、アイヌのことを父を一緒にやったことはほとんどなかったんですよね。自分は今回やったような儀礼・儀式、カムイノミに、(これまでも)父さんに誘われて3回か4回は参加したことはあったんですけど、ホントに気持ちのこもったカムイノミっていうのをしたことはなかったんです。

 自分の祖父と父が、アイヌ文化のことを守り続けてきて、自分がアイヌ文化を受け継がないことは、とても残念だなあと感じて、今年度より、札幌大学のウレシパクラブというところでアイヌ文化の勉強を始めて、今年度4月から勉強を始めて、父さんのようにカムイノミを堂々とできるようになりたいと思って、札幌大学に入学したんです。

 今回の7月のカムイノミは、父さんから誘われたから行ったというだけで、今までこの遺骨が帰ってくるまでの85年間、たくさんの人が悔やんで、本当に取り返したいという気持ちで……一番取り返したいと願っていた城野口ユリさんのことも自分は知らないし、今回、映像で見たのが初めてでした。

 自分は遺骨問題のことを全く知らないので、本当は「あのカムイノミもしていいのかなあ」という気持ちもあったんですけども。自分は、あのカムイノミに参加して、カムイノミが終わった後にたくさんの人からたくさんの気持ちを聞いて……理解できたのはほんの少しだったんですけれども、参加して良かった。ほんとうにアイヌ民族がこれから変わっていくこと、その一歩をコタンの会がやってくれたんだなあ、ということをとても意識しました。

 それから4カ月経って、ここでもそんなに話すことはないのかなあと思ったんですけども。あれから本当に、自分は、あのカムイノミが終わった後、すごい、何度も何度も後悔しました。自分はまだまだ未熟で、もっとできることがあったんじゃないのか。父さんに任せたこともあるし、コタンの会のみなさんに任せたこともあるし、自分ができることがもっとあったんじゃないかと、本当に後悔して、いま……いまこの場に立って、話をして良いのかっていうのも思ったんですけど。

 一番にここで言いたいのは、本当に遺骨が帰ってきて良かった。そして、自分がこの問題に関われたこと、アイヌ文化を、アイヌとして生きることができた。和人として生きてきた今までではなくて、今年度からでも、アイヌとして生きて、アイヌとしてここに立てた。そのことをとてもうれしく思っていて。

 先ほどみなさん、ここで話していたし、父さんも話をして。聞いていて、本当にみなさんには感謝だなあというふうに思いました。(拍手)


葛野次雄

 目から汗が出るでや。(拍手)

 逆にね。一言でさ。大変だったのさ。2カ月、3カ月くらい前からさ、これを引き受けたため、っていったら語弊がありますが、大変だった。

 (当日まで)残りの2カ月。さきほどの(記録DVDで放映写された)クワ(の製作)の映像もね、8月に旭川の川村兼一さんのところに、32℃だかちゅう日に行ってね、炎天下で。あの映像が2分(だけ)というのはけしからん!(笑)

 俺と小川さんとね、(朝)5時ごろから行ってね。俺は家に着いたのは夜中の2時だったわ。……なんてことはね、いいことなんだけどね、大変だったと言うことと、それをやり終えた達成感。

 みなさんがたにはね、これがどういう形で進められて、終わったのかということを、来年また4体が帰ってきますので、できればその時に見てもらったら……俺、口べただからさ。歯も痛くなって、顎痛くなって……見てもらった方がいいかなと、一言で申し上げさせていただきます。ありがとうございます。(拍手)

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