アイヌ遺骨返還請求訴訟

2017年9月21日

2017年9月17日、「北海道大学からの返還遺骨を故郷、紋別へお迎えするカムイノミ・イチャルパ」でのスピーチ

清水裕二・コタンの会代表、北大開示文書研究会共同代表

清水裕二/北大開示文書研究会共同代表、コタンの会代表

コタンの会代表、清水でございます。この紋別に無事に遺骨が帰ってきたというニュースが、けさのNHKでも放送されていました。そしていま、丁重なるイチャルパが執りおこなわれ、みなさんのお心遣いで、無事に終わりました。どうもありがとうございます。イヤイライケレー。

さて、じゃっかん時間をちょうだいしましたので、遺骨の件に関して、私の経験をお話ししたいと思います。

じつは私自身にも、生きながらではありますが、身体検査を受けて形質人類学の「資料」として活用された経験があるのです。65年前と言いますと、私は小学校4年生か5年生なんですけど、当時暮らしていた新冠での出来事です。ある日学校で、給食が終わった後だったので午後1時くらいかなと思いますが、アイヌの子どもたちばかり20名近くが教室に残るように指示されました。そこへ、学校の先生とは違うおじさんが調べに来ました。いったい何をされるのか、ひどく緊張したことを覚えています。一人ずつその人の前に座らされ、まずコンパスに似たものを使いまして、頭の幅、長さ、顔の長さなどをつぶさに測定されました。次に上半身裸にされ、背中を向けろと言われました。背中に竹の物差しを当てて5センチ四方を測った後、何やら一生懸命、数えているわけです。毛穴の数を数えていたのでしょう。血液も採られた記憶があります。後年、北大開示文書研究会に参加して北海道大学に遺骨返還を求める運動にかかわり始めた時、私はこのことを急激に思い出しました。

もうひとつは約60年前、私が静内高校に在学していた当時の記憶です。そのころ、国鉄(現JR)日高線の静内駅のすぐ近く、駅舎を背にして左側に古い墓地が広がっていました。1956~57年ごろ、静内町(現新ひだか町)によってこの墓地の改葬事業が行なわれることになったのですが、その古い墓地から掘り出されたアイヌの人骨は、新しい墓地に改葬されることなく、解剖学の骨格標本としてすべて北海道大学医学部に移送されました。そのお骨、少なくとも198体が現在も北海道大学の「アイヌ納骨堂」に留め置かれたままになっています。

静内高校にはその当時、「郷土史研究クラブ」がありました。顧問の名前は忘れてしまいましたが、ニックネームだけ覚えています。「モグラ」と呼ばれていた先生でした。あの近辺のみならず、あちこちの遺跡やお墓を発掘していたので、自然にモグラと呼ばれるようになったようです。そのモグラ先生が率いる郷土史研究クラブは、静内駅前の墓地発掘にも参加していました。彼らが実際に墓を掘っているところを、私も二度ほど見学した記憶があります。

さて、こうして北海道大学が集めたアイヌの遺骨に関しては、1980年、海馬沢博さんという方が、北大に質問書・抗議書を送って返還を求めましたが、大学は応じませんでした。2年ほど経ちまして、北海道ウタリ協会(現北海道アイヌ協会)理事長の野村義一さん、副理事長の貝沢正さん、事務局長の葛野守市──私の叔父です──、旭川の杉村京子さん、札幌の小川隆吉さん、そして事務局の佐藤幸雄さん、6人が北大医学部3階のある部屋を訪ねました。ドアを開けた右側の棚にエゾオオカミの頭骨が並び、その奥の方にアイヌの頭骨が雑多に散乱している状態であった、と。これを見た杉村さんは「ごめんなさい、ごめんなさい」と言って泣き崩れたそうです。このことを私は葛野守市から直接、聞いています。叔父は、まだ年若かった私に、あまりこのことを詳しく伝えたくない様子でしたが。

私は、当時の北海道ウタリ協会を「黄金の時代」だったと評価しています。この人たちが、いまの北大のアイヌ納骨堂を建設する方向を作ったんですね。一度、その工事現場を訪ねたことがあります。すると看板にあろうことか「動物標本庫造成工事」と書いてあったんですよ! 納骨堂が完成する前に叔父は亡くなったんですけど、入院中の病室で「建物の名前は後で変えることにしてあるから、裕二、そのことを分かっておけよ」と聞かされた記憶があります。

以来、北海道大学のアイヌ納骨堂前では毎年8月第1金曜日にイチャルパ(慰霊祭)をやっておりますけど、お骨をコンクリートの建物の中に置いたままのイチャルパが本当に慰霊になっているのか、私は疑問に思ってきました。

やがて2007年9月、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が国連総会で採択されます。このことについても一言申し上げると、アイヌ政策の指導的立場にいる北海道大学の某教授は国連宣言をまったく軽視し、アイヌの主権を認めず文化振興のみに偏った「日本型先住民政策」なる主張を行ない、それを信じ切っているのが現在の北海道アイヌ協会の対応ではないかと思います。ちょっとその考え方は変えてみたらどうかと申し上げたいところですが、私はアイヌですけれども、北海道アイヌ協会からボイコットされて会員ではありませんので、かないません。

2008年に日本の国会が衆参全会一致で「アイヌを先住民族と認める事を求める決議」が採択になります。私はへそが曲がっているので、あれで政府がアイヌを先住民族と認めた、とは全然思っていないのです。というのも、その後のアイヌ政策として一体何が進んでいますか? 一番進んでいるのは、白老町に2020年に完成予定の国立アイヌ博物館と民族共生象徴空間の建設です。全国の大学が持ち去ったままにしているアイヌのお骨をそこに集めようという話になっているんですが、非常に許せない思いでいっぱいです。

全道各地から持っていったアイヌの先祖のお骨は全部地元に返してもらう、というのが私の思いです。そのために、本当に急いで取り組まなければと思っていますが、期限の2020年を迎える前に、「象徴空間にお骨を集めさせない決議」を実現させたい。アイヌを含め、各自治体のみなさんともども、議会にそういう決議をさせる運動を展開したいと思っているんです。きょうは平取から木村二三夫さん、井澤敏郎さんもお見えですが、すでに平取町でそのような検討が始まっているとうかがっています。全道で同じように行動していきたい。

そのためにも、北大開示文書研究会では引き続き出前講座を展開したい。ここ紋別でも出前講座を開きましたし、東京でも開きました。ぜひみなさんと協力しながら、地元への遺骨返還を求めることに加え、遺骨を白老に再集約をさせないために、出前講座を利用してもらえればと思います。このことを申し上げて、私のご挨拶とさせていただきます。ありがとうございました。(拍手)


2017年9月17日、「北海道大学からの返還遺骨を故郷、紋別へお迎えするカムイノミ・イチャルパ」でのスピーチ

殿平善彦・北大開示文書研究会共同代表

殿平善彦・北大開示文書研究会共同代表

北大開示文書研究会を代表して、ひとことご挨拶を申し上げさせていただきます。

私は、アイヌではありません。和人の一人として、この遺骨問題に関わらせていただいた者であります。長い北海道近世・近代の歴史を通して、アイヌの方々がどれほど苦難の歴史を歩んでこられたか、それは想像することもできません。私は、その歴史の中において、明治以後に本州から北海道に移り住んできた者の末裔であります。植民地=北海道に、植民として、ここに到来した者の子孫であります。みなさまの歴史に対して、加害者の側にいる者だと言わなければなりません。その意味では、本当に長い苦難の歴史に、心から謝罪の思い、お詫びの思いを申し上げるものであります。

2008年に小川隆吉エカシが北大に情報開示の請求をして以来、今日まで、市川弁護士をはじめ、アイヌと、そして和人の協働の仕事として、遺骨を返してくれという請求をし、裁判を起こし、和解を勝ち取り、そして今日を迎えています。しかしまだ、たくさんの遺骨は大学の倉庫の中に眠ったままであります。本当に申し訳ないことであります。

アイヌの方々は、この遺骨返還を先住権の行使として続けてこられました。遺骨を取り戻すことはその第一歩でございましょう。その向こうに広大な先住権の行使、権利の回復という大きな課題を背負っておられることでありましょう。この歴史、負の歴史にかかわり続けてきた者の一人として、私もまた、自ら思いを新たにし、アイヌの方々とともに、その権利回復のために、微力ながら努力を続けさせていただきたい。このことをお誓い申し上げて、北大開示文書研究会を代表してのご挨拶とさせていただきます。(拍手)


当日のプログラム

遺骨返還訴訟(紋別事件)における畠山敏・紋別アイヌ協会会長と北海道大学の和解条項

遺骨返還訴訟ニューズレターNo.16「紋別の遺骨4体地元帰還決定!」

イチャルパのちらし pdf 242kb