「サケ漁業権確認訴訟」支援センター > 裁判所への意見陳述

陳述書

山下君子

1 アイヌとしての生い立ち

私は昭和27年5月に三石町富沢で生まれ、父母は二人ともアイヌでした。

富沢はアイヌの人が結構住んでいて、カムイノミなどはよく行われていました。富沢はコタンとして当時も残っていたのです。富沢には祭司をするエカシが多く、父のところにもカムイノミのやり方を勉強するために萱野茂さんや葛野辰次郎さんなどが来ていたのを覚えています。両親の葬儀もアイヌプリの葬式で行いました(50年前)。棺桶にはキナという茣蓙を巻いて、馬橇で墓地へ運んでいったのです。

私は、4人兄弟の末っ子で、アイヌ語は話せないけど、聞くことはある程度できます。両親はアイヌ語を話していました。地域にはアイヌが多かったからか私たちの世代は周りから差別を受けることはありませんでした。中学生くらいの頃、すれ違った和人の子に「アー、イヌ」、と言われたことはあります。

2 アイヌとしての日常

父は山仕事(造林)をして働いていました。私は中学卒業後浦河の洋裁学校に2年間通いました。その後、静内の豆腐屋に住み込みで働きながら、夜は洋裁学校に通い続けました。豆腐屋には長く勤め、そこから嫁に出してもらったものでした。夫との結婚式は昭和56年にシャクシャイン記念館でアイヌプリの結婚式をあげました。夫の孝夫の希望でした。夫は、アイヌプリの結婚式がほとんど行われなくなった時期だったので、どうしてもやりたかったようです。アイヌプリの結婚式は珍しいとのことでマスコミの取材もあったし、博物館の記録にも残しました。まだエカシが何人かいたので、アイヌプリの結婚式を受け継ぐことができましたが、私は恥ずかしくて嫌でした。でも、その後各地でアイヌプリの結婚式が復活したらしいことを聞いています。

私はアイヌとして、アイヌ料理や刺繍、織布はやっていました。静内で縫い物の講習会が年に何回かやっていたので、必ず参加するようにしていました。

アイヌのことを教えるには資格がないとダメだと言われ、私はその資格をとりました。

3 アイヌの文化を残したい

私は、アイヌの文化を承継して残してほしいと願っています。アイヌの文化は地域ごとに個性のある違うものがあるはずなのに、最近は全部一緒のようになってしまっています。自分たちの代で本当のアイヌ文化を亡くしてしまいたくない、活動をしていれば誰かが見て、興味を持ってくれるかもしれない、それでアイヌが繋がれば良いと思っています。

また、アイヌの文化は、飾って見せるものではありません。夫婦でアイヌとしてアイヌ語を残しながら、毎日の生活の中にアイヌの文化を生かしていかなければと思っています。そのためには、アトゥシの材料となるオヒョウの皮が自由に捕れなくてはなりませんし、料理に使う山野草が自由に取れなければなりません。材料を買ってアイヌ料理を作るのは本当の生きたアイヌ料理ではありません。私は昔のアイヌがそうであったように、自然の物を自由に取れてこそアイヌの文化だと思います。私は、アイヌ同士が結婚して、アイヌ文化に関わっていることも何かの縁と思い、本当のアイヌ文化の復権のために頑張りたいと思っています。

【現住所、署名】


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2024年12月27日、北大開示文書研究会