「サケ漁業権確認訴訟」支援センター > 裁判所への意見陳述
陳述書~サケ捕獲権の確認を求めて~
ラポロアイヌネイション 会長 差間正樹
1 ラポロアイヌネイションについて
私たちはラポロアイヌネイションと名乗っています。会員は全員、先祖からこの地(浦幌町)に住んでいる人たちです。私の母方は浦幌町十勝太の出身で、その先祖も十勝太出身でした。浦幌町愛牛地区に住んでいた会員の古川さんは、残念ながら5年ほど前に病気で無くなりましたが、先祖から愛牛に住んでいました。愛牛はもともとは今の地区より4キロメートルほど南の地区(アンネウシコタン)にありましたが、「洪水被害を避ける」という名目で1885年に移住させられました(別紙地図1)。その後、アンネウシコタンの場所は「肥沃な土地」として農地になり、和人が土地を取得していきました。また、浦幌町の厚内(私が現在住んでいる場所)にもコタンがあり、メンバーの丹野氏の先祖は、厚内の隣のチㇷ゚ネオコッペというコタンに住んでいました。厚内やチㇷ゚ネオコッペも古くから「トカチ」に含まれていたようです。
私たちラポロアイヌネイションのメンバーの先祖は、すべて現在の浦幌町にあったコタンに住んでいたのです。ですから、私たちは、先祖が有していたコタンの権限を受け継ぎ、ラポロアイヌネイションとしてその権利を行使できるのです。
陳述書に地図を添付しています。浦幌十勝川と十勝川周辺の地図とコタンの場所、遺骨が発掘された場所などを(1)に図示しました。この地図から、発掘された遺骨はラポロアイヌネイションの先祖の遺骨であったことが分かると思います。地図(1)は、1823年に帝国陸軍測量部が測量した、最初の十勝川河口部の地形図です。中ほどに十勝川が二股に分かれているのが分かります。右側(東側)に流れる川が当時の十勝川本流で、左側(西側)に流れる川は大津川と言っていました。松浦武四郎の記述にもこの二股の様子が記載されています(甲6の358ページ)。この古い地図からは、十勝川沿いに複数のコタンが存在し、遺骨発掘の場所もこれらコタンの近くにあることが分かります。十勝川河口には、十勝太コタンがあります。北大が遺骨を発掘した場所は愛牛コタンのアイヌの遺骨であり、東大や札医大が発掘した遺骨は十勝太コタンのアイヌの遺骨でした。
地図(2)を見ると、この十勝川への分岐が堤防で堰き止められ、十勝川は浦幌十勝川となりました。この結果、浦幌十勝川を遡上していたサケは十勝川本流へは遡上できなくなりました。現在はかろうじて支流の浦幌川などへ遡上しています。
地図(3)は、堤防が建設された結果、浦幌十勝川の河口が閉塞したため、導水路を建設した地図です。この導水路は人工の水路なのでサケの遡上が確認できないことが開発局の資料からわかります(甲61)。
私たちの先祖は、この二股から浦幌十勝川にかけての流域及び十勝太から厚内への海岸線に沿って、複数のコタンに分かれて数百年にわたって住んでいたアイヌなのです。この地域全体を私は十勝川河口域と呼ぶことにします。
2 コタンについて
すでに様々な文献から明らかなように、アイヌは、コタンという集団をつくり、集団として生活していました。私の先祖が属していたコタンは、十勝太コタンです。コタンにはその近辺にチャシと呼ばれる「砦」のような構築物があります。ただ、チャシは「砦」という目的だけではなく、サケの遡上を見張る、他のコタンのアイヌが支配領域に入るのを監視するなど複数の目的もあったと言われています。十勝太コタンにも「十勝川口チャシ」と呼ばれるチャシがあります(北海道指定史跡)。先祖たちはこのチャシからサケの遡上を確認し、他のコタンのアイヌの侵入から川の漁場を守っていたことでしょう。
地図(1)に記載しているのは、主なコタンだけで、ウラホロコタンの隣にはオベッコウシコタンという大きな集落もあったと言われています(甲7)。ただ正確な位置やメンバーがどうなったかなどは不明のようです。愛牛コタンのメンバーは、移住させられながらも、現在の導水路の近くで生活していました。
3 私がアイヌと声を挙げた経緯
前項で述べたように、私たちは十勝川河口域及び現在の浦幌町に住所を有する、先祖からこの地に住むアイヌの子孫で結成する団体です。個人個人はアイヌと言っても、アイヌに出自を持っているから自動的に会員になるわけではなく、自らをアイヌであると自認している、アイヌであると表明しているメンバーで構成しているものです。浦幌町には、90世帯ほどのアイヌの人たちが暮らしています。しかし、多くのアイヌは、長年の同化政策と和人からの差別に苦しみ、自らアイヌである、と声を上げることができないでいます。
私が、自ら「私はアイヌです」と発信したのは40歳になってからです。私自身もそうでしたが、兄弟親戚の手前、アイヌであるとカミングアウトすることはやはり躊躇するもので、勇気のいることです。
70歳を過ぎている今でも、子供時代のこと、学生時代のことをいろいろ思い出すと苦しくなったり、切なくなったりします。社会の中で生活する時、いろいろな場面で差別を感じるのですが、それは民族差別が原因です。私は、その差別の中で暮らしている時に、アイヌであることを隠していることが、かえって差別も助長されることに思いいたりました。「私はアイヌです」と自分から発信し、はっきりさせることで、相手にとっても周りにとっても、すっきりするように感じられるようになりました。その時はすでに40歳になっていたのです。
私自身がアイヌであると声を挙げた時、地元のアイヌ協会、当時は北海道ウタリ協会浦幌支部と言っておりましたが、この支部に私は入会しました。
当時、自分たちをアイヌと名乗るのは、やっぱり子供達をまた差別のるつぼに落とすのではないかということで、自分たちの仲間という意味のウタリという言葉で、ウタリ協会と名乗っておりました。
私は、支部に入会してから、アイヌのいろいろな風習、伝統文化を勉強するようになりました。両親は、私にはアイヌの風習や伝統を一切教えようとはしなかったのです。
私がいろいろ学ぶ中で、毎年北海道大学のアイヌ納骨堂で催されていたイチャルパ(先祖供養)に参加するようになりました。
4 生活としての文化を復活したい
多くのアイヌは、自分がアイヌということを表明できない状況にあることはすでに述べました。それは100年以上の同化政策の中で、「アイヌは滅びゆく民族」「アイヌは劣った民族」として差別されていたためです。私自身、「私のどこが日本人より劣っているのだろうか」と悩んだ時期もありました。このような生活の中で、アイヌの伝統的生活やアイヌの文化は受け継がれることなく失われてきました。伝統的生活といっても、大昔のような「狩猟生活」を言っているのではありません。自然に対する考え方、先祖が暮らしてきた生き方、それらを維持しつつアイヌとして生きていく、アイヌとしての誇りをもって生きていく、それが私のいう伝統的生活であり、文化です。
しかし、このアイヌとして誇りをもって生きていく生き方が「劣った民族」「劣った文化」として否定される中で、先祖たちは子孫たちにこの生きたアイヌ文化を伝えることを止めてしまったのです。
和人の人が、正月に門松を飾ったり、おせち料理を食べたり、初もうでをすることが「劣った民族文化」として否定されたら、どう思うのでしょうか? 私たちはこのような習慣ばかりか、アイヌ語を話すことも禁止されていたのです。
私は、私たちアイヌの日々の生活の中に、アイヌの文化を復活させ、先祖が暮らしてきた生き方を取り戻したいと強く願っているのです。サケは神の魚として私たちの文化の中心的存在です。そのサケが自由に捕獲することのできない現状は、私たちのアイヌとしての誇り持って生きたいという願いを根本から否定するものなのです。
5 遺骨を地元に返してほしい──遺骨返還訴訟へ
私が、北海道大学のイチャルパに参加するようになってから、北海道大学になぜたくさんのアイヌの遺骨があるのかについて、帯広図書館で調べてみたところ、ある本が見つかりました。その本を書いた児玉作左衛門という先生が、北海道でアイヌの遺骨を発掘、というより盗掘、そういうことをやっていた研究者だったのです。その方の本を読んでみると、アイヌの中には死んだ人の頭骨に孔を開ける風習がある人たちがいる、というようなことを書いてるんです。そしてその理由を研究しているとのことでした。私は何をばかなことを言ってるんだと思いました。結局は、児玉作在衛門自身がこの孔はネズミが齧った跡ということを表明しました。北大で行われていたイチャルパには、アイヌのほかにも外国からも参加している人たちもいて、児玉作左衛門にみんな注目していました。私たちは、刀、トカチアイヌのエムシ(刀のこと)……、そういったものに取り囲まれ頭骨を持っている彼の写真を、資料として見せてもらったりもしました。私は、彼のことを知れば知るほど、これは単なる泥棒じゃないかと、私たちの先祖の骨を盗んだんじゃないかと、考えるようになりました。
そこで当時ウタリ協会の十勝支部の会合に行って、なんとか遺骨を返してもらいたいもんだと言ったんですけれども、周りの人も「いや、それは無理だなあ……」と話しておりました。それでウタリ協会の北海道本部に行って、「遺骨を何とか返して欲しいんだ」と言ったら、「差間さん、簡単だよ。祭祀承継者であるということを証明すれば返してもらえるよ」って言うんですよ。
私は意味が分からず、その後いろいろ調べてみると、祭祀承継者というのは単なる子孫であるだけでなくお墓を守る人、そういう人を日本風、倭人風の民法の法律で言うと祭祀承継者というんだということを知りました。それはただの子孫じゃなくてその先祖を守っている立場の人。これは、私たちの先祖何代にも渡って遡って調べなければならないことで、それはとても無理な話で、これはできっこないなと思っていたんです。まして、遺骨が誰の遺骨かすらわからないのですから、なおさらです。
ところで、私の子供時代のことですが、亡くなった人の遺骨は、その前に亡くなった人の隣に埋めていく、その次に誰かが亡くなったらその隣に埋めていく、そういった和人のような「家」ごとに埋葬するものではありませんでした。そして、亡くなった方の埋葬後の遺骨の管理は、それぞれの家が行うのではなくあくまでもコタンで行っていた──これは父方でも母方でもそうですね──そういう風習だったのです。今、アイヌの間でも行われている、その家ごとにお墓を建ててその中に先祖を埋葬するという日本風の習慣は、私が10~15歳の頃から行われるようになった習慣です。そうするとその前の世代はどうだったかというと、父方のほうでも母方でも、やっぱりコタンが墓地と遺骨を管理していたのです。
ですから私は考えました。私たちの先祖の骨が北大のアイヌ納骨堂に保存されているんですけれども、その遺骨に関しては私が祭祀承継者であるということを証明しなくても、どこどこのコタン出身のアイヌだということであれば、その出身地(コタン)に遺骨を返してもらえるんじゃないかと。それで私たち浦幌アイヌ協会も遺骨返還請求裁判を起こしたのです。2014年5月のことです。すべての訴訟は和解によって北大、札幌医大、東京大学から遺骨を返還させ、浦幌町の墓地に再埋葬しました。裁判官は「裁判所が適当と認める団体に返還する」という和解の方向性を示しました。私たちは当然にこの考えに同意しました。現在までに、浦幌の愛牛コタンとか十勝太コタンといったところから発掘された遺骨、それから浦幌町立博物館での遺跡の発掘の際に掘り出された遺骨も含めて103体を返させました(添付の図を参照してください)。私たちは集団として行動するということの大事さを、それで痛感いたしました。
6 アメリカのサーモンピープルを訪ねる旅で学んだこと
私たちはその後、自分たちの権利、そういった集団の権利をどのように実現していくか、どういったことが世界で行われているか、ということに目を向けるようになりました。アメリカのコロラド大学のロースクールにチャールズ・ウィルキンソンさんという先生がいるんですけれども、その方が北海道に来たとき私の家をたずねてきてくれました。それでぜひアメリカに行って、インディアンの今の実態、今の様子を、あなたたちは見るべきだと、強力に勧めたんです。それで2017年5月に北アメリカのワシントン州北西部のサーモンピープル──マカトライブとローワーエルワクララムトライブの二つのトライブを訪ねる旅をいたしました。
私は、アメリカに行く前は、インディアンの人達は居留地という場所に押し込められていて、苦しい生活をしているというように思っていたんです。それが行ってみると、皆さん豊かに過ごしていて驚きました。そして現在に至るまでの闘いの歴史を学びました。1960~70年代、自分たちの漁業権を巡って、ワシントン州とトライブとの間で「魚戦争」と呼ばれる闘いを行い、ビリー・フランク・ジュニアというリーダーは何回も刑務所に入れられながらも自分たちの要求を貫いて、1974年、アメリカ連邦地方裁判所のボルト判決を手に入れたのです。この判決では、インディアンには、固有の権利としてサケを獲る権利がある、そして連邦政府に土地を売っても、売った土地の中にある慣習的漁場において、開拓に入った人たちとトライブは、同等に魚を獲る権利がある、その同等という言葉の意味をはっきりと数字で50対50で獲る権利があるんだ、という内容でした。それ以来、ワシントン州北西部の20のトライブがインディアン漁業委員会(NWIFC)を作り、現在はサケなどの漁業資源を自分たちで管理して、港も自分たちで管理して、それから川の状況も全く自分たちで管理したりしているのです。それから自分たちのところに流れてくるエルワ川にできたダムを取り壊して、それまでダムがあってサケがのぼれなかったその川を、また昔のようにサケがのぼれる川に戻していったのです。それで現在は大変豊かな生活をしているのです。私たちは2軒の家の方に招待されましたが、いろいろな話を伺ったり、それから食事をご馳走になったりしたんですけれども、広い庭に囲まれて本当に豊かな生活をしていていました。
私は、この旅を通じて、私がアイヌもこうでありたいと願っていたことがアメリカでは実現しているのを目の当たりにしたのです。
7 先祖が持っていた権利を取り戻したい
私達は十勝川河口域及びそれから伸びる沿岸に住んでいますが、遺跡や土器を研究する学者の人たちに言わせると、この流域に住んでいた人たちは、何万年も前から十勝川の恩恵にあずかってきたということです。1万4000年も前の土器の底にサケを調理した跡が出てきたそうです。その後の擦文時代になるとチャシという砦を作るようになったようです。そして、このチャシというのは、各コタンにそれぞれ存在していたと最近の考古学が明らかにしたようです。このコタンこそが私たちの先祖が暮らしていたコタンなのです。私たちの先祖は、縄文草創期からずっと豊かな自然の恩恵にあずかって暮らしていたんです。それが明治になって突然、その川でサケを獲ることができなくなって、飢餓に襲われながら、今のような状態になってるんです。
遺骨返還裁判を通して、地域に住んでいるアイヌの団体の一員であるということを、改めて認識しております。浦幌アイヌ協会として行動していることが、この動きを可能にしているのだということを認識しております。遺骨返還を通してまとまった浦幌アイヌ協会が、私たちアイヌの奪われた権利を取り戻す団体になる、という思いです。サケを獲る権利、川を利用する権利、サケが遡上する川を取り戻す権利、私たちの先祖が当然のように持っていた権利を取り戻したいという思いです。
私たちは、現在、毎年9月に北海道知事の許可を得て、浦幌十勝川河口部でサケの捕獲をしています(特別採捕といわれています)。しかし、第1に、あくまで「伝統文化の保存」のためという目的に縛られ、かつて先祖が行っていたような販売(交易)は禁止されています。北海道職員は、「伝統文化」保存の目的という理由から、アイヌ料理のために〇尾、靴などの製作のために〇尾などと細かく捕獲するサケ数を限定してきます。しかも、捕獲できる総数については、関係する団体(漁業協同組合)の同意を得た数、とされています。ここ数年は、漁業協同組合の同意を得るために100尾に限定されています。
私たちは、この特別採捕で捕獲したサケでアシリチェップノミという、その年にはじめて獲れたサケを神にささげる儀式を行います。この儀式は、今年のサケ漁がとどこおりなく行われ、漁獲も豊かであるように、と神に祈る儀式です。この儀式のためのサケ捕獲は「伝統文化の保存」として認められていますが、儀式の本来の目的である、その後のサケ漁自体が禁止されているのです。儀式は単なる儀礼としてだけ認められ、私たちの、サケ漁の生活とは切り離れているのです。このような矛盾はありませんし、これは文化ではありません。先祖と同じように自由にサケが捕獲出来て、私たちははじめて先祖と共に生き、アイヌの文化を実践するアイヌと名乗れるのです。先祖と同じように自由にサケを捕獲し、それを利用し、生活の糧とし、神にささげ、私たちの文化を築いていきたいのです。アイヌとして生きる誇りは、これによってはじめて生まれてくるものです。
もちろん、私たちはサケを根こそぎ捕獲するものではありません。私たちの権利を持続させるために、サケの資源を大事にしなければならないからです。アイヌがかつて自由にサケを捕獲していた時、サケ資源が枯渇することはありませんでした。国が私たちアイヌのサケ漁を禁止することでサケ資源を保護しようなどと言うことは、私に言わせれば笑止千万です。和人のサケ漁こそが乱獲の原因であり、この乱獲の原因、サケ資源枯渇の原因をちゃんと分析して対応すればよいだけで、私たちのサケ漁を禁止してもサケ資源保護とは関係ありません。
私たちは浦幌アイヌ協会の名前を2020年にラポロアイヌネイションと変えました。アメリカのマカトライブやローワーエルワクララムトライブがそうであるように、アメリカ合衆国と各トライブとの関係が、日本での私たちアイヌの集団と日本政府との関係になるようにとの思いです。アメリカでは、トライブは自己決定権を有する団体とされ合衆国と対等の立場です。そいう関係を日本政府との間で作り上げたいと願っているのです。私たちは国と同じテーブルにつき、対等に話し合いたいのです。
私たちは国と北海道に対して先住権としてのサケの捕獲権の確認を求めて訴訟を提起しました。私たちの先祖は十勝川の河口域で漁猟権を持ち、海、山、川を自由に利用していました。これらの漁猟権、狩猟権は先住民族の権利に関する国際連合宣言、人権規約、生物多様性条約、社会権規約、人種差別撤廃条約など、複数の国際条約によって認められており、世界の潮流となっています。
日本が批准しているこれらの国際法や条約は、日本国憲法98条によって日本国内の法令の上位に位置づけられる国内法的な効力を有するものだと定められております。それに対して国と北海道は水産資源保護法とか漁業法によって、あなたたちには日本人一人一人と全く同じように、そういう魚を獲る権利はないよ、川で魚を獲ることはできないよ、それは全く日本人と同じ権利なんだよ、と主張しています。だからラポロアイヌネイションの権利は認められないのだと言っています。私からすれば、この主張は私たちがアイヌとして生きていくことを禁止しているのと同じです。私たちアイヌは、和人にはないアイヌの固有の権利をもって、アイヌとして生きていく権利がなければなりません。国の裁判での主張は、現代においてもアイヌとしての存在を否定する同化政策を堂々と主張しているのです。
私たちは、あくまでアイヌとして生きたい、ただそれだけなのです。裁判所には、ご理解をよろしくお願いいたします。
以上です。
ご利用のみなさまへ
Ⅰ 著作権について
訴訟関係の記録(ラポロアイヌネイションが提出した訴状、準備書面、その他の訴訟での提出文書(意見書等))の著作権は、ラポロアイヌネイション、弁護団、各意見書作成者がそれぞれ保有しています。
Ⅱ 利用について
A 訴訟関係の記録
訴訟関係の記録を利用するにあたっては、すべて弁護団に通知し、弁護団を通じて各著作権者の承諾を得ることとします。
また、訴訟関係の記録を外国語に翻訳して利用する場合は、上記の承諾のほかに、その翻訳文について弁護団の了解を得ることとします。
2024年12月27日、北大開示文書研究会