「サケ漁業権確認訴訟」支援センター > 裁判所への意見陳述

陳述書

【現住所】

神谷広道

R7.10.25

1 アイヌとしての生い立ち

私は、新ひだか町の東静内に住んでいます。私の母はアイヌで、母の祖父は、オペリクンという名のエカシ(酋長)でした。先祖たちは今の東静内にあったアザミコタンというコタンで暮らしていました。私は昭和26年生まれで小学校に上がる前までは、祖父(オペリクンの長男)の太郎、祖母(祖母もアイヌで、口の周りに入れ墨をしていました)と一緒に暮らしていました。父は和人ですが、小学校入学のころに、祖父母の家の隣に家を建て、私たち家族は祖父母の隣に住むようになりました。

2 小さい時の生活

祖父母は、アイヌ語を流ちょうに話していましたが、私たちには日本語を話していて、私たちがアイヌ語を話すことを嫌っていたようです。祖父母の家は、アイヌのチセと呼ばれる伝統的な家でした。真ん中に炉が切ってあり、冬には幾度となく、この炉でカムイノミやイチャルパを行い、コタンの人たちがいつも5〜6人来ていたのを覚えています。カムイノミの仕来りも覚えています。若い女性は参加できない、そうでない女性も炉の後ろ側に座り、前側は男性だけ、女性はオンカミ(両手の手のひらを上にして、体の前で上下する動作でカムイに祈る行為)をしない、などがありました。カムイノミが終わると集まった人たちで男女一緒にいろいろな踊りを踊って遊びます。

私はこれが楽しくてよく覚えています。「ネズミ捕り」という踊り、「色男の踊り」など、みんなでキャー、キャー言いながら楽しみました。

イチャルパ(先祖供養)も家でやっていました。この時もいろいろな人たちが集まりました。

私が小さい時の思い出で一番印象に残っているのは、クマ送りです。冬に冬眠中のクマ狩りをし、子熊をコタンに連れて帰ります。私は母クマが殺されるところは見ていませんが、子熊と遊んでいました。甘噛みをしてそれはかわいいものでした。でも、大きくなってクマ送りの儀式で、この子熊もカムイの世界に贈られました。私はかわいそうで泣いていました。

でも、こんな伝統が当時の静内には残っていたのです。

3 自衛隊に入隊

私は高校を卒業して自衛隊に入りました。自衛隊に入った理由は、差別が嫌だったからです。私が暮らしていたアザミコタンは入植者のシャモが多く、アイヌは私たち家族だけでしたが、小さいときは差別を意識したことはありませんでした。小学校の高学年のころ、同級生に先生にちやほやされていた和人の子がいたのですが、私はそれが面白くなく、徒競走の選手を決めるとき、その子を負かしてリレーのアンカーになったことがありました。それを見ていた和人の女の子から、「アイヌのくせに」、と言われました。中学校、高校に入ると、私が友人と思っていた人でも「神谷はアイヌだ」と露骨に言われ、なぜ、そんなことを言われなければならないのか、と心が傷つきました。そこで、自衛隊に入ればアイヌであっても平等に扱われるだろう、と思ったのです。

自衛隊では航空整備の仕事をしたかったのですが、残念ながら整備の仕事はできませんでした。ですから3年経ったら自衛隊もやめようと思っていました。

自衛隊では、入間基地に赴任しました。入間基地の門衛を沖縄の人が勤務していました。この人は私の顔を見て「お前は大和んちゅうでないな」と沖縄の同胞のように扱ってくれ、非常にうれしく感じました。彼は、私が遅く基地に帰ってきても、いつも私にニコニコと接してくれました。

4 静内に戻る

3年間の自衛隊勤務を終え、しばらくはアルバイトなどをしていました。その間、台湾にも遊びに行ったことがあります。

私は25歳から静内町(今の新ひだか町)に住んで、タクシー運転手として働くようになりました。やはりアイヌの葛野次雄さんという人の紹介でした。タクシー会社には18年勤め、その後静内町の環境衛生整備公社でゴミの収集の仕事をし、定年を迎えました。

5 アイヌとしての活動

私はあまりアイヌとしての活動をしていませんでしたが、母は北海道ウタリ協会(今のアイヌ協会)静内支部に入っていました。ウタリ住宅資金を借りて家を建てたのを機に、母が「お前も支部に入れ」と言ったのでウタリ協会静内支部に入ったのがアイヌとしての活動の始まりでした。当時北海道ウタリ協会は、静内にあるシャクシャイン像を囲んでシャクシャイン法要祭を毎年やっていました。私は30歳くらいだったと思いますが、このシャクシャイン法要祭の準備などをするようになり、さらに静内アイヌ協会の活動に携わるようになりました。

ただ、私は自分がアイヌてあること、そしてアイヌとして活動をしようと強く思ったのは、隣町の浦河町杵臼での遺骨返還活動を行うようになってからてす。

それまで、私は和人の立派な石の墓を見ながら、同じ墓地にあったアイヌの墓が恥ずかしくてしようがありませんでした。私の親たちはアイヌの墓、と言ってもクワという墓標だけの、狭い場所にいろいろなアイヌの家の人が埋葬されている墓にお参りするのを恥ずかしく思っていたようてした。ですから私は「墓参り」に連れて行ってもらえませんでした。

しかし、遺骨の返還に取り組むようになって、私の考えは間違っていたことが分かりました。そもそもアイヌは墓参りなどはせず、自宅でイチャルパという先祖供養をするものだということを知りました。私の親が子供の私を墓参りに連れて行かなかったのは理由のあることでした。親たちは和人の目があるものだから墓参りをしていましたが、本当は墓参りなどはしたくなかったのだと思います。また、狭い場所に何人ものアイヌが埋葬されるのも、「家」の墓ではなく「コタンの墓」だからだったのです。コタンのみんなで埋葬し、コタンのみんなでイチャルパをして先祖を一緒に供養する、アイヌの伝統だったのです。

このように私はアイヌの埋葬について知ると、なんで研究者はアイヌの墓を暴いて先祖の遺骨を持っていってしまったのか、と思うようになりました。そして先祖の遺骨は返してもらわないと絶対にダメだ、と思うようになったのです。

私はどちらかというと「隠れアイヌ」でしたが、遺骨の返還を通してアイヌとしての誇りを持って生きることを学びました。

これからもアイヌとしての誇りを取り戻すために活動したいと思っています。

6 アイヌとして誇りを持つ生き方

静内でもアイヌは多いのですが、周りの土地は和人の土地ばかりです。アイヌの土地はないのか? と疑問に思います。またサケは静内でも古くからアイヌの食料でした。

知り合いのアイヌは今でも「密漁」をしながらアイヌらしい生活をしようとしています。

今、私たちがサケを獲るには「特別採捕」と言って知事の許可が必要です。特別採捕でサケを獲っても、売ることはできません。少しでも売れれば私たちアイヌの生活は楽になりますが、売ってはダメなのです。

私は、アイヌが誇りを持つためには、堂々とサケなどを捕り、自由に売って生活をしたり、山菜やキノコ、木を切るなど、先祖が暮らすためにやってきたことが当たり前にできることが必要だと思います。固い言葉でいうと、私たちが持っていた権利をそのまま返してもらいたいということです。ラポロアイヌネイションが起こしている裁判は、この私たちの思いを実現するために起こしている裁判だと思います。それも私に言わせれば、当たり前の要求であり、元々できたことができるようにするための裁判だと思っています。


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2024年12月27日、北大開示文書研究会