裁判の記録
第11回口頭弁論での原告訴訟代理人・毛利節弁護士の弁論
2023年3月23日、札幌地方裁判所
原告代理人意見陳述の概要
以下、順番は前後しますが、原告が提出した準備書面(8)~(10)等の骨子についてご説明します。
第1 原告準備書面(10)について
この準備書面では、榎森進先生の意見書に基づき、江戸時代の幕藩制社会におけるアイヌの位置づけとアイヌが自分稼ぎという形で行っていたサケ漁の概要について記載しています。
1 まず、幕藩制社会におけるアイヌの位置づけについては、徳川家康から松前藩宛てに出された黒印状で明らかになっています。この中では「蝦夷(アイヌ)は、どこに行こうと、何をしようと蝦夷のおもうままにするように」という「蝦夷次第」の定めが記載されています。また、アイヌは課税の対象外にもされており、化外の民として、幕藩体制国家の外の民族と位置づけられていました。
2 居住区域についても、和人が居住する「和人地」とアイヌが居住する「蝦夷地」とは明確に区別されており、1799年の段階では、熊石村から現在の八雲町山越を結ぶ地域の南側が和人地となっていました。このような和人地と蝦夷地を区分する体制自体は、今から約150年前の1869年まで続いていました。
3 和人との交易とアイヌの自分稼ぎについて
和人とアイヌとの交易については、幕藩体制の当初の段階では、「商場知行制」という方法がとられていましたが、1715年頃以降になると、「場所請負制」へと変化していったと言われています。これに伴い従来交易の相手方であった商場内のアイヌは、和人商人が経営する漁場の労働者へと変質していくことになります。
しかしながら、このような中においても、アイヌは「自分稼ぎ」と称される、場所請負人のためではなく、アイヌ自身の生活のための独自の生産活動に従事していました。これは、アイヌコタンが集団としての独占的・排他的漁猟権を行使していたことを意味するものであり、このアイヌの「自分稼ぎ」による漁猟は、幕末の安政期においても、依然として活発に行われていました。
この点、原告が、北海道帝国大学(現北海道大学)より、浦幌町の原告のアイヌ墓地だった場所から盗掘されたアイヌ遺骨95体と副葬品の返還を受けた際、その副葬品の中にはサケ漁に使用した「網針」が含まれていたのですが、このような事実は、原告の祖先が、日常的にサケ漁に従事していたことを意味しています。
4 以上のとおり、アイヌは、江戸時代末期の安政期に至っても、未だ幕藩体制の外に位置づけられる化外の民であり、「自分稼ぎ」という形で、河川での独占的・排他的漁業権を行使していたことが史実からも明らかになっています。
第2 準備書面(9)について
この書面では、アイヌが古来から有していた河川でのサケ捕獲権が、本件の十勝川では明治16年以降、一律に禁止されるに至り、その規定が現在の水産資源保護法28条にも引き継がれていることを前提として、このような禁止規定がアイヌに与えた影響を踏まえた上で、この規定の不合理性について指摘しています。
1 河川でのサケ捕獲禁止措置がアイヌに与えた影響について
(1) 飢餓の発生(アイヌの生存権への脅威)
アイヌにとってサケは、カムイ・チェプ(神の魚)、シペ(本当の食べ物)と言われ、主要な栄養源となっており、季節によっても変化しますが、サケ・マス類がアイヌの栄養源のおよそ2~3割を占めたと推定されています。そのような栄養源の2~3割を占めるサケの捕獲禁止が、アイヌに深刻な飢餓の発生をもたらしたことは容易に理解されるところです。事実、この禁止措置の直後に行われた札幌県の調査結果においても、この禁止措置が十勝川周辺のアイヌに極めて深刻な飢餓状況や極度の困窮をもたらしたことが記載されています。
(2) 自分稼ぎの喪失(アイヌの経済的基盤の喪失)
アイヌが「自分稼ぎ」として河川でのサケ漁を行っていたことは、前記のとおりですが、この禁止措置によって、アイヌの「自分稼ぎ」が不可能となり、アイヌだけが生業としての経済的基盤を喪失することとなりました。
(3) コタンの立地環境への影響
アイヌコタンの立地については、サケの漁場やサケの産卵場という点が重要なポイントとされており、サケの産卵場はコタンの縄張りにもなっていました。
このように、コタンの立地環境自体が河川でのサケ漁に重きを置いて選定されていたものであったことから、河川でのサケ漁の禁止は、まさにアイヌがそこに居住する意義を失わせることとなりました。
(4) サケを中心としたアイヌ文化・宗教等の精神世界の破壊
生活面や文化的側面から見ても、アイヌは、河川でのサケ漁禁止によって、ウライ漁等の古来の漁法を失うのみならず、伝統的なアイヌのサケ料理やサケを使った伝統衣類等の衣食住全ての面においてアイヌとしての生活・文化を営むことが著しく困難となりました。
また、サケやサケ漁にまつわる様々なカムイユーカラなどの伝承、儀式及び数々のタブー等からも明らかなとおり、サケ漁は、アイヌの精神世界や日常規範の根幹をなすものでした。これらの伝承やタブーは、文書化されることなく、日々の漁に従事する中で代々受け継がれていたものですから、サケ漁が実施されないということは、サケ漁に関する伝承等が途絶えることを意味していました。
宗教的儀式の面から見ても、「ペッ、カムイノミ」や「アシリチェプノミ」といったサケ漁に関する祭儀が行われており、アイヌが行う川でのサケ漁では、漁全体を通じて、カムイ(神)への感謝、カムイとの繋がりという宗教的要素が色濃く認められています。しかしながら、このような祭儀等も河川での漁の禁止に伴い、その実施が困難になっていきました。
2 以上のとおり、河川でのサケ漁は、アイヌの生活、文化、精神世界等を含めたアイデンティティの根源をなす行為であり、その漁の禁止によって、アイヌはアイデンティティと「アイヌらしく生きる権利」自体を奪われたといっても過言ではありません。
この点、原告の前会長である長根弘喜氏は、従前の意見陳述においてこう述べています。「川でのサケの捕獲はアイヌの文化そのもので、サケの捕獲にアイヌとしての誇りを感じました。先祖と同じようにサケを獲り、神に祈り、カムイノミをしながら『俺はアイヌだ』と体が震えました。アイヌとして誇りをもって生きるためには、私たちに和人とは違う、サケを捕獲する権利が絶対に必要だと思いました。」と。このような全人格的感覚こそ、アイヌ民族にとってのサケを捕獲する権利の意味に他なりません。
3 水産資源保護法28条の不合理性について
ここでは、河川でのサケ捕獲を一律に禁止する水産資源保護法28条には様々な問題点があり、不合理な規定であって無効であることを具体的に指摘します。
(1) まず一つ目の問題点は、水産資源保護法28条は、アイヌの権利を全く無視していることです。
既に述べたとおり、この規定は、サケ採捕権を有するアイヌであると否とを問わずに、一律に河川での採捕を禁止する規定となっており、アイヌの権利・アイデンティティを全く無視している点において極めて不合理な規定となっています。もっとも、この問題点については、アイヌに対する「差別」を構成するものともなっていますので、改めて述べます。
(2) 2つ目の問題点は、目的と手段との間に論理の飛躍があることです。
被告らは、水産資源保護法28条による河川でのサケ採捕の一律禁止の趣旨については、「さけ資源の枯渇を回避する」ことを挙げています。
しかしながら、理論的には、河川での一律禁止以外の方法、つまり一部禁止等の方法によっても、さけ「資源の枯渇」を回避することは可能ですし、また河川ではなく沿岸部での採捕制限という方法もあるのですから、河川での「一律禁止」という手段とこの法律の目的との間には明らかに論理の飛躍が認められます。
(3) 3つ目は、親魚の約9割は沿岸等にまで回帰した時点でほぼ採り尽くされていることです。
令和4年度の道内でのサケ捕獲数の調査結果によれば、人工ふ化放流事業のために河川等にて捕獲された尾数は約407万尾で、沿岸定置網漁等で捕獲された尾数は約2940万尾となっています。この統計から見ても、全体の約9割のサケが沿岸部等で採捕されており、河川に上るべきサケのほぼ9割は沿岸部等において既にほぼ取り尽くされているものと言えます。
サケの資源保護の観点から見れば、沿岸部等での採捕を「無制限」に認めながら、一方で河川での採捕のみを「一律禁止」するという極端な規制方法には、何ら合理性がないと言えます。
(4) 4つ目は、アイヌ民族にのみ重大な結果をもたらす差別的な規制となっていることです。
この点について、被告らは、河川でのサケ捕獲を一律に禁止しても「アイヌ民族であるか否かに基づく法的な差別的扱いを定めているわけではないから、水産資源保護法28条の規定自体にアイヌ民族とそうでない者との間の形式的な不平等は存在しない。」旨主張しています。要は、この法律は、サケを営利目的で採捕する者も、レジャー目的で採捕する者も、そしてアイヌも、皆同様に河川での採捕を禁止しているのであるから、「形式的な不平等は存在しない」と言うのです。
しかしながら、平成27年の最高裁判決においても、憲法14条の法の下の平等については、形式的な平等では足りず、「実質的な平等が保たれるように図ること」が趣旨であることが明言されています。また、「人種差別」について規定した人種差別撤廃条約では、「人種差別」には、平等を妨害する「目的」行為だけではなく、結果として妨害する「効果」を有するものも含んでいると規定されています。
このような平等、差別の概念から、この規定の効果を見た場合、既に述べたとおり、この規定によってアイヌは、アイデンティティと「アイヌらしく生きる権利」自体を奪われたものであり、人権上も極めて重大な損害を受けていると言えます。
一方、河川での捕獲規制の対象となる者には、商業目的の採捕者やレジャー目的の釣り人等が想定されますが、この規定が商業目的の採捕者に与える影響は、経済的利益の「一部の制限」に過ぎません。また、沿岸部等での採捕による収益は何ら規制されていないのですから、その損害回避のために、代替性のある回復手段が残されていることは明らかです。まして、レジャー目的の釣り人に至っては、他の魚種の釣りや沿岸部や河口部での釣りによって、ほぼ同等の満足が得られるのですから、損害は殆ど無いものとなっています。さらには、そもそも一般のレジャー目的の釣り人と先住民族の権利を同視している考え方自体に重大な問題があると言えます。
このように河川でのサケ捕獲を一律に禁止する規定は、営利目的の採捕者やレジャー目的の釣り人等と比較しても、アイヌに対してだけ人格権等の重大な権利に対する、極めて重大な損害を与える規制となっていますので、アイヌに対する差別に該当し、無効と言わざるを得ません。
第3 準備書面(8)について
原告準備書面(8)では、これまでの原告の主張を踏まえ、総括的な見地から被告らの主張の根本的な問題点と、それに対する各種条約委員会等からの指摘についてまとめています。
1 1つ目の問題点は、被告らは先住民族としての本来的権利を理解していないことです。
被告らは、原告には漁業法に基づく何らの免許も付与されていないから、原告に本件サケ捕獲の権利が認められる余地はない旨主張しています。
しかしながら、先住民族は、自らが伝統的に保有・使用してきた資源に対する権利を、先住民族としてのアイデンティティに基づいて本来的に有しています。このことは、自由権規約等の批准された各種条約、及び先住民族の権利に関する国連宣言、並びに同条約等に関する一般的意見等によっても明記されているとおりです。
従って、法律がないことを理由に本件サケ捕獲権を否定している被告らの主張は、根本的にこの権利の理解を誤っているものと言えます。
2 2つ目の問題点は、批准された条約等の国際人権法が、国内法に優位するという原則に反していることです。
被告らは、これらの条約は「水産資源保護法の規制の及ばないさけ捕獲権等の権利を保障すること」までを条約の締約国に義務付けるものではない旨繰り返し主張し、原告の本件サケ捕獲権を否定しています。
しかし、日本では、憲法98条2項の規定等を根拠として、国際法は国内法に優位するという解釈が定説となっています。
被告らの前記主張は、国内法である水産資源保護法が国際法に優位することを前提にしたものであって、国際法は国内法に優位するという基本的な法体系を理解していない主張となっています。
3 3つ目の問題点は、被告らは「差別」の概念を理解していないことです。
この点については既に準備書面(9)のところで触れたとおりです。
4 以上、述べた3つの大きな問題点については、上記各条約に関する委員会も同様な問題意識を持っています。
まず、先住民族の本来権利や「差別」の概念を理解していないことについては、2022年の自由権規約委員会の総括所見において「委員会は、先住民族としてのアイヌの権利に対する差別と否定、(以下中略)が報告されていることに、引き続き懸念を抱いている。」として、その問題性が明確に指摘されています。
また、国内法秩序との関係では、前記総括所見において、「締約国は国内法秩序において規約を完全に実施すべきであり、且つ国内法が規約上の義務に適合するように解釈、適用されることを確保すべきである。」として、国内法に対する国際法の優位という法秩序の基本構造を確保すべきことが指摘されています。
同時に、自由権規約委員会は、上記各問題点が日本政府の国際人権法に関する理解と研修の不足に起因しているとの考えに基づき、日本政府に対して、裁判官、検察官及び行政官等に対する研修不足を繰り返し指摘するに至っています。
例えば1998年の自由権規約委員会の日本政府に対する総括所見では、「委員会は、裁判官、検察官及び行政官に対し、規約上の人権についての教育が何ら用意されていないことに懸念を有する。委員会は、かかる教育が得られるようにすることを強く勧告する。裁判官を規約の規定に習熟させるための司法上の研究会及びセミナーが開催されるべきである。」との指摘がなされています。また、その後の2022年の同委員会の総括所見でも「継続的研修及び啓発をする努力に関する具体的な情報がないことに引き続き懸念を抱いている。」として、さらならる「懸念」が指摘されるに至っています。
以上のとおり、本件訴訟における被告らの主張には、国際人権法上、様々な問題が含まれており、その点については、国際機関からも度重なる懸念が表明されていますが、本件裁判によって、このような懸念が払拭されるであろうことを原告は信じて疑いません。
以上